平成20年6月 第二回定例会一般質問
市民協働のまちづくりの具体化に向けて
―まちづくりは幸せづくり―

 
安心・安全のまちづくり
―情報保護と情報公開の観点から―

 
東広島市議会議員 宮川誠子
市民協働のまちづくりの具体化に向けて ―まちづくりは幸せづくり―
みなさん 引き続きご苦労様でございます。宮川誠子でございます。
発言の機会を与えていただいておりますことに感謝を申し上げながら、一般質問を行ってまいりたいと思います。

私は、まず最初に、『市民協働のまちづくりの具体化に向けて―まちづくりは幸せづくり―』と題しまして、第4次東広島市総合計画基本構想の中で、今後のまちづくりの方向として目指しておられる市民協働のまちづくりについて、その具体化に向けての考え方を論じてみたいと思っております。そして、人と人が支えあえる、真に実効性のある市民協働のまちづくりの実現を目指しまして一般質問に臨んでまいりたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

今、時代は転換期であると感じております。日本の近代に視点を置いてみますと、敗戦後の混乱と貧困の中から、ものづくりの技術力と勤勉さによって、日本は見事に経済復興を遂げました。しかし、経済が常に右肩上がりの高度な成長を続けるなどということは、ありえるはずがないことであります。

社会は、経済成長を遂げ、物質が社会に行き渡った段階で、経済成長は緩やかな曲線しか描きえないということは、少し考えれば誰でも知っていることであります。

高度経済成長の段階から、緩やかな成長の段階に移行した時点で、時代は既に転換点を迎えていたのではないでしょうか。しかし、我々人間は、変化に中々対応ができないものであります。過去の栄光にしがみつくかのように、既に古くなったシステムに固執し、時代に合わない仕組みを無理に合わせようとすればするほど、社会のあらゆる分野で、様々な問題を露呈するに至ってしまっているのだと、思えて仕方がありません。

人間が生まれ、青年期から成熟した大人へと成長するように、社会も、高度経済成長を遂げる青年期から、成熟した大人の社会へと成長していくものだと思っております。そして、今がその成熟した社会への、正に転換点に立っているのだと感じているところであります。

昨年の6月の一般質問におきまして、私は、『まちづくりとは幸せづくりだと思っております』と申しました。戦後日本人は、物質的に豊かにさえなれば、幸せになれると信じ、がむしゃらに働いてまいりました。その先輩諸氏のご努力には、心からの敬意を表するところでございます。しかし今、はたと気付けば何か大切なものを失ってしまったのではないかと、感じておられる方は多いのではないでしょうか。

どんなに物質的に豊かでも、便利なものに囲まれていたとしても、話をする相手もいないたったひとりの生活が幸せでありましょうか。その答えは否だと思います。人の幸せは、人と人のつながりの中にしかありません。そして、人の心は、人と人のつながりのなかでしか育てることはできません。

豊かさ・便利さを追求しすぎたあまりに、個々人の都合に対応しすぎて、一番肝心な人と人のつながりが失われてしまいつつあるのではないかと思っております。

真に心豊かな暮らしを実現するために、そして、成熟した社会へと移行するために、行き過ぎた物質至上主義の発想を転換し、人と人のつながりを取り戻す、現代にあった地域社会の再生を目指し、人の心を真正面に見据えた政策展開が必要なのだと思っております。

そして、それこそが、地方分権であり、市民協働のまちづくりそのものであると思っているところであります。地方分権と市民協働のまちづくりの発想は、根っこを同じくするものだと思っております。そのキーワードは、『自立』であります。

明治以来の中央集権の仕組みは、全国画一の金太郎飴的な制度設計をするものでありました。日本全国を手っ取り早く行政サービスの水準を上げていくためには、この中央集権の仕組みは、適切なものであったのかもしれません。

しかし、一方で、中央集権では、キメの細かいサービスはできないのであります。それぞれに地域特性を持つそれぞれの地域の実情には、対応しきれるものではありません。そしてなりより、この中央集権制度の一番の欠点は、地方自治体や住民を過保護にしてしまったということではないのかと思っておるところでございます。
 自ら考え、自ら実行する、そして自らの責任は自ら負う、という自立の精神なくして、真の民主主義の実現はなしえないものだと思っております。自治体が、地方分権の下で、自立した自治体にならなければならないのと同じように、市民も、自ら考え、自ら実行する自立した市民に脱皮しなければならないのだと思っております。その自立した自治体と自立した市民の、相互に協力しあえる関係、そこにこそ、成熟した社会の姿があるのだと思っているところでございます。

このような市民協働のまちづくりについての認識の下に、3点の質問を行いたいと思います。

まず1点目として、データの集積だけでは、実態を把握したことにはならない、ということであります。東広島市民という名前の市民は存在しません。市民とは、それぞれに個性を持ち、顔を持っているひとりひとりであります。そのひとりひとりの顔が見えてこそはじめて、実態を把握したことになるのだと思っております。
 政策を立案するにあたって、データの集積は必要なものであります。客観的な数値を見ることで、全体の概略を把握することができ、大局に立った判断ができるものであります。しかし、それだけでは、実態の半分しか把握できていないということなのではないのでしょうか。大きくものを見ることと同時に、個々の具体的な姿、ひとりひとりの人間がいかに暮らしているのかというその姿を見、心を感じることなくしては、机上の空論に陥る危険性があるのだと思っております。

少し余談になりますが、今、後期高齢者医療制度が問題となっております。国会は、野党の提出した廃止法案の扱いを巡り、政局を見据えた攻防が展開されているところであります。私は、この後期高齢者医療制度について、その理念は、けして間違ったものではないと今でも思っているところであります。にもかかわらず、ここまで混乱をもたらしてしまい、混乱に拍車をかけてしまった原因は、国家官僚の正にデータしか見ない、机上の空論にこそあるのだと思っているところであります。国の官僚機構の疲弊しきっている現実を目の当たりにした思いがしておるところであります。

何故ならば、これまで国民健康保険や老人保健制度のもとで、地方自治体が、それぞれの地域の実情に応じた独自の政策展開をしてきたことが、広域連合が主体となったために何もできなくなり、そういう個々の政策について国はほとんど何も把握しきれていなかったか、あるいは、意に介していなかったからこそ、ここまでの混乱に陥ってしまったのだと思えて仕方がないからであります。

このような机上の空論に陥ることのないように、現実・実態をしっかり見るということが必要なのだと思っております。

東広島市の職員は、データの集積においては、長けていると思っております。何を尋ねても返事が返ってくるということに、感心しているところではありますが、しかし一方で、現場に足を運ぶことが少ないのではないかと思っているのも事実であります。安芸津に、高齢者福祉の常設型サロンひだまりの家という施設があります。活動状況についてのデータの報告を何度も求められるけれど、一回も現地を見に来てもらったことはないという話を聞いたことがあります。

百聞は一見に如かずと申します。イメージだけで政策論議をするのではなく、現地・現場・人の顔が見える位置にいることも大切なのではないかと思っております。大きくものを見る視点と、個々の具体を見る視点とを、同時に持ち合わせてもらいたいものだと思っておりますが、いかがお考えかご所見をお伺いいたしたいと思います。

2点目は、形を真似ても魂がなければ、本物にはならないということであります。政策論議をするときに、他の国と比較したり、あるいは、他の自治体の先進事例を紹介し、同様の政策の実施を求めることがよくあります。
 私は、国の成り立ち、歴史や文化、人々の意識、地域の実態がまるで違う国の政策を取り入れても、効果的な政策にはなりえないと思っております。日本には日本の、東広島には東広島の、もっと言えば、市内の各地域には各地域の個性・特性・地域実態があるのであり、その実態に沿う施策でなければ有効な施策にはならないと思っております。

先進地の視察はまちづくりを考える者にとっては、非常に大切なものであります。それは、見聞を広め、様々な視点や理念を学び取ることができるからであります。しかし、学ぶべきことは理念であって、手法ではないと思っております。例えば、市民協働のまちづくりにおいて、市民組織の作り方や運営方法などの形だけを真似てみても、理念がなければ失敗に終わります。何故なら、その事業が成功するに至った経過は真似できないからであります。地域の実情や、人々の意識に起因する経過は、真似などできるはずがないのであります。

先ほど紹介しました安芸津の高齢者福祉サロンひだまりの家を真似て、建物を建て、ボランティア組織をつくり事業実施した自治体があったそうですが、利用者はほとんどなく、事業は失敗に終わったという話を聞いたことがあります。形だけを真似ても魂つまり、理念がなければ駄目だということの証明であろうと思っております。

市民協働のまちづくりにおいては、住民が自ら考え実行するという、住民意識の醸成が主眼であり、手法については、それぞれの地域の実情に応じたものを模索していくという積み重ねによるしかないのだと思っております。どのようにお考えかご所見をお伺いしたいと思います。
3点目として、市民協働のまちづくりの具体化に向けて、具体的な方策を提案してみたいと思っております。地域公共交通の事業として、昨年度は福富において地域公共バスしゃくなげ号の試験運行が実施され、今年度からは、安芸津及び豊栄地域での試験運行が行われようとしております。このバス運行の実施にあたっての運行ルートの作成などについて、社会福祉協議会に任せてみてはいかがなものであろうかということであります。

何故このような提案をするかと申しますと、市民協働のまちづくりに適している分野は地域福祉ではないかと思っているということと、社会福祉協議会という組織の性格がその役割を担うにあたって有利な条件を備えていると思っているからであります。

この社会福祉協議会という組織の性格についてでありますが、社会福祉協議会は言うまでもなく半官半民の組織であります。市民協働のまちづくりは、市民自らが考え実行することでありますから、市が、市民を信頼し、行政運営の一部を具体的に市民に任せるということが前提であります。これを行った場合に市民から最初に出てくる声は、「市は、自分たちに面倒なことを押し付けるつもりか」という不満であることは火を見るよりも明らかです。しかし、それが社協であれば、「社協が助けてくれと言うのなら手伝おう」となるのではないでしょうか。
 あるいはまた、市が、市民の声を聞こうと前面に出た場合は、住民側からの要望の応酬に晒されることになることも、火を見るよりも明らかです。当然のことながら、全ての要望に応えることはできず、不満の種はいつも残ってしまいます。しかし社協が、皆さんで考えて欲しいと言えば、市民同士で意見の調整を行うことができ、全ての人が納得できる結果になるものと思われます。これらは、社協が、半民であるからできることなのだと思います。

そしてもう一点、社協は半官であるということであります。官の良い所は市民からの信頼があるということです。一民間団体が旗を振っても、市民は中々力を貸してくれるものではありません。しかし、半官の社協であればその呼びかけには応じてくれるのではないでしょうか。

つまり、市と市民をつなぐ役割としての、半官半民という性格を持ち、同時に地域福祉に実績を持つ社協ならではの立場が、市民協働のまちづくりに適していると思っているところであります。どのようにお考えかご所見をお伺いいたしたいと思います。

最後に、私が市民協働のまちづくりについて、このように考えるに至った要因のひとつは、安芸津における社協の実績によるものであります。財源不足の中でも、地域が必要としている福祉サービスを提供しようとしたとき、安芸津社協は、その財源不足を地域の人々のマンパワーによりカバーしようとしてきました。住民の理解を求め会費や寄付金を集めて財源を確保すると同時に、地域の様々な団体や個人にボランティアを要請し、独自の活動を積極的に展開して参りました。それにより、安芸津の地においては、社協を中心に様々な組織や個人が結集し、地域における人と人のつながりが活発に機能してきております。

そして、その活動に参加している人たちは、「会社人間で、地域のことなど何もわからなかったけれど、お陰で地域の人たちの仲間入りができてありがたい」という声が象徴しているように、楽しく元気に社会活動をされております。

我が家の台所に日めくりがあるのですが、その中のひとつに、「私の存在を喜んでいただくことこそ、真の喜び」という言葉があります。人は、社会の中に自分の居場所があり、自分が誰かの役に立てているということを確認できたときに幸せを感じるものだと思っております。

市民協働のまちづくりは、そのような意味で、心豊かな社会につながっていくまちづくりなのだと思っております。

そして、この東広島市全域は、このようなまちづくりが可能な地域であると思っております。昨年の10月1日から、市内全域でゴミ袋の有料化が実施されました。賀茂環境センターの職員が、「出勤する途中でどこを見てもゴミ袋の色が統一していたのに感動しました」と報告してくれました。私はそのとき、そのように感じるその職員の言葉に感動したのを覚えておりますが、後で聞けば、市内全域、中心部である西条地域においても、初日からほぼ完璧に実施されたということであります。
 それはつまり、東広島市はいい意味で田舎だということではないでしょうか。つまり、社会のルールは守らなければならないという社会秩序が保たれている地域であるということであります。これならば、市全域で市民協働のまちづくりを展開して行くことは可能だと確信したところであります。どのようにお考えかお伺いいたしたいと思います。

安心・安全のまちづくり ―情報保護と情報公開の観点から―
次に、安心・安全のまちづくり―情報保護と情報公開の観点から―と題しまして、安心・安全なまちをつくる視点について質問を行いたいと思います。

昨年の12月の質問でも、個人情報保護法は行き過ぎではないかという質問をしたところでありますが、その視点をもう少し進めて考えてみたいと思っております。

連日、理解しがたい犯罪が、新聞やテレビを賑わしております。そのような犯罪が起きる度に、身を守るために、情報保護・プライバシー保護という方向に法規制が強化され、また、人々の意識も情報保護にどんどん傾いてきているというのが現在の状況ではないでしょうか。

しかし、安心・安全な社会は、「保護」つまり「隠す」ということによって、本当に実現できるのであろうかということを、私の問題意識として皆様方に提示してみたいと思っております。

ゴミは汚いところ暗いところに集まると言われます。綺麗に掃除されているところには、人はゴミを捨てにくいものだそうであります。それと同じように、犯罪者が、犯罪を行いやすい地域と、行いにくい地域というものがあるという話を聞きます。例えば、空き巣にはいりやすいのは、高い塀で囲まれた家だということです。一旦、塀の中にはいってしまえば、死角になって誰からも見られる心配が無いからということであります。

隠れるところ『死角』がある地域は犯罪が行いやすいということであれば、その逆の地域をつくることが、犯罪の行いにくい安心・安全なまちをつくるということになるのではないかと思っております。それはつまり、明るく、風通しがよく、人々の視線がどこからでも飛んでくるような地域ということであり、地域に住む人々の声が飛び交い、どこかの誰かが何をしていても、それを気に留めて見ている人がいる、そんな地域であれば、犯罪者は逃げていくのではないでしょうか。

プライバシー保護が声高に叫ばれるにつれ、人々は人様のことを気に掛けることが返って罪悪であるかのような思いにさせられ、徐々に人々は、人様が何をしていても気にもとめず、人が倒れていても平気で通り過ぎることができるような社会にしてしまったのではないかと思えて仕方がありません。
 私が19歳のとき、1年だけ東京で生活していたことがあります。ある日、アパートの隣の部屋の洗濯物、バスタオルだったと思いますが、落ちていたのでチャイムを鳴らし、「これ落ちてました」と差し出した瞬間に、睨まれ、バスタオルを引きちぎられ、ドアをバタンと閉められた記憶があります。まるで犯罪者扱いだと愕然としたのを覚えております。

その後田舎に帰ったとき、知らないおばあさんが、「おはよーがんした」と声を掛けてくれるのが無性に嬉しかったのを覚えております。

プライバシー保護の価値観は、自分の命は自分で守るという徹底した個人主義の国の価値観であります。自分のことは自分で守るのであるから、自分のプライバシーに口を出すなという、厳しい個人主義の考え方があってはじめて成り立つ価値観なのだと思っております。

日本は、和の文化です。「和を以って貴しとす」という人と人のつながりを最も大切にする精神風土を持つ国の中にプライバシー保護の発想を持ち込んだからこそ、命は社会が守れと言いつつ、人のプライバシーは侵すなという、わがままとしか思えない真反対の価値観を平気で主張することが横行し、社会秩序に混乱をもたらしてしまったのではないかと、そして、プライバシー保護の考え方が、返って、安心・安全を脅かす結果になっているのではないかということを、実は、思っているところであります。

日本には、日本人の文化・精神風土に馴染んだ安心・安全の守り方があると思っております。それは、「保護」つまり「隠す」ということではなく、「公開」つまり「開く」ということではないのでしょうか。隣近所の付き合いも少々面倒かもしれないけれども、人と人のつながりを大切にし、声を掛け合い、助け合うという、犯罪者が逃げていくような風通しのいい社会をつくることが、自分のことをどこの誰だか知っていて、なにかあっても人々の目が届くような、そんな社会をつくることが、安心・安全のまちづくりに近づけることではないのかと思っております。

このような公開の発想を下にした、安心・安全の社会の構築に向けた考え方をお持ちであるかどうか、本市の政策についてお伺いいたしたいと思います。

以上で私の初回の質問を終えたいと思います。ありがとうございました。

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