平成20年9月 第三回定例会一般質問
『今、日本の最重要課題は、人間育成』


教育の分野における、東広島市としての独自性・自主性
東広島市議会議員 宮川誠子
皆さん 大変ご苦労様でございます。威信会の宮川誠子でございます。6月に会派の合併をいたしまして、真生倶楽部から威信会に変わりました。おかげさまで初日に一般質問ができることとなりましたが、本日5人目ということで、皆さん、大変お疲れのこととは存じますが、もうしばらくお付き合いいただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

一般質問にはいります前に、一言二言申し述べさせていただきたく存じます。福田総理の突然の辞任表明により、今自民党では総裁選挙に多数名乗りを上げ、報道は自民党総裁選挙一色になっている感があります。福田総理の突然の感がある辞任表明を、マスコミは、無責任な放り投げだと批判していますが、たぶん福田総理は、このまま臨時国会に突入しても、途中で立ち往生するような事態は避けられない、そのときには、解散総選挙しか道はなくなるとの判断から、そうするよりも、自民党のためには、今辞任するのが最良の道であると判断されたのであろうと思っております。

そういう熟慮の結果の辞任であったのであろうとは思っておりますが、しかし、私は、どうしても首をかしげてしまうことがございます。政治の劣化と言うより、政治家の劣化と言うべきなのでしょうか、皆さん何か勘違いされていると思えて仕方がありません。それは、『事実は小説より奇なり』という言葉を皆さん忘れておられるのではないかと言うことであります。ドラマであれば、シナリオライターが描いた通りにドラマは進みます。しかし、現実の社会は、そうはいきません。現実の社会にも裏で動かしているシナリオライターがいると思っている人が多いようですが、大きな間違いだと思っております。もしいるとすればそれは、神様なのではないでしょうか。我々生きている人間は、誰しもが出演者でしかありえません。シナリオなどない中で、与えられた今という時間を真剣に生きることにより、本物のドラマが生まれるのです。シナリオがないからこそ、人は感動するのです。人間の真剣な思いのこもった行動が人を動かし、誰もが想像だにしなかったような結果を生み出すのです。バラク・オバマが次期アメリカ大統領の最有力候補になると誰が予想したでしょうか。そういう思いもよらぬことが起こるのが現実の社会というものです。そしてそれが、自然の摂理というものなのだと私は思っております。誰かが思い描いたシナリオ通りに行動しても、裏に企んだ意図が透けて見えてしまい、人々をしらけさせるだけでしかありません。そんなところには何の感動もない。

自民党にとって損か得かという、損得勘定に基づく熟慮の結果の辞任表明だからこそ、国民には理由がわからず、放り投げという批判を招いてしまうのだと思っているところであります。

こんな単純な自然の摂理を、一国の政を司る総理大臣すら理解していないということに、この国の政治家の劣化を感じてしまいます。我々東広島市の政治家は、これを他山の石として学びたいものだと思っております。

それから、もう一言、御礼を申し上げたいことがございます。先月、私の知人のアーティストで大阪芸術大学准教授の竹垣惠子が、賀茂鶴酒造の協力を得て、酒蔵で個展を開催いたしました。ご案内申し上げましたところ、市長・教育長をはじめ執行部の皆さんや同僚議員の方々にもお立ち寄りいただくことができました。この場をお借りして、御礼申し上げます。

私は、昨年6月の一般質問において、東広島市が、本物の文化人が集まってくるような、本物の文化に触れることのできるような、成熟した都市になって欲しいと申しました。その思いを実現すべく、その一助として、今回の個展の開催に協力した次第でありますが、これに関わってみまして、東広島の文化度がわかるような気がいたしました。やはり、アートに触れ合う機会が非常に少ない地域であるんだということが、手に取るようにわかりました。そして一方で、身近にアートに触れ合う機会を求めている人も多く存在しているということ、更には、東広島市はやはりただの田舎ではなかったということ、レベルの高い本物の文化人が玉石混合のごとく存在しているということも知ることができました。ご縁があれば、今後とも、このような取り組みを続けてまいりたいと思っております。その折には、市執行部の皆様や同僚議員の皆様のご理解とご協力をお願い申し上げまして、御礼の言葉にさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
『今、日本の最重要課題は、人間育成』
前置きが長くなりましたが、それでは、一般質問にはいらせていただきたいと思います。まず、循環型社会の再構築を目指して―農政の方向性を問う―と題しまして、農業政策のあり方について論じてまいりたいと思います。よろしくお願いいたします。

戦後の日本において、今ほど食の自給率向上が叫ばれることはかつてなかったのではないでしょうか。昨年来、様々な食品偽装が発覚し、今年にはいってからは中国製毒入りぎょうざ事件が起こるに至って、日本産の品質の高さや安全性の高さを返って自覚させられたのは、日本人の側であったのであろうと思っております。世界が認める自国のものづくり技術の水準の高さに、価値を見出していなかったのは、他でもない日本人であったと言えるのかもしれません。

同時に、地球温暖化という事態に陥り、併せて原油高騰という事態も追い討ちをかけている今、海の向こうから、地球の裏側からさえも食料を運んでくるという、現実世界の距離も時間ももろともしない、自然さえねじ伏せられると勘違いしているかのような人間の力技が、いかに愚かしいことであるかということが理解されつつあるのではないかと思っております。

戦後日本の高度経済成長は、自動車や電化製品などの工業生産に支えられてきました。日本のものづくり技術の水準の高さによる国際競争力の強さにより、Made in Japan が世界を席巻する陰で、その犠牲になってきたのは、常に日本の農業であったのだと思っております。

しかし、現在に至るほどに農家の足腰を弱くしてしまったのは、この間の国の農業政策の誤りにあると、私は思っております。それは、自立の阻害ということであります。米が余っているから減反しろ、作物は何を植えろ、圃場整備・農地改良をして生産性を向上しろ、日本の行政は、この間、農家に対して様々に口を挟み、それが農家を守るためだと言い続けてまいりました。みかんが値段がいいからみかんを植えたら補助金を出すと言い。結果みかんが豊作となって値が下落し、次には他の作物に植え替えたら補助金を出すと言ってみかんの木を伐採させる。こんな馬鹿なことが何度となく繰り返されてまいりました。農家の側は、お上の言うことを聞いていればお上は我々を守ってくれるのだと信じ込み、その言いなりになってきました。その挙句の農産物の輸入自由化、米の市場原理導入という自由化であったのです。多くの補助金を注ぎ込み、やったことは、農家の自立的精神を骨抜きにするということにしかならなかったのではないかと思えております。

人は、守ってもらえると思っているうちは、自分で切り開こうという意識は育ちません。補助金漬けにして、農家の自立を阻害した挙句の果てが、農業の担い手不足と自給率30パーセント台という結果なのだと思っております。

しかし一方で、私は、農業の持つ底力も感じております。田んぼや畑があれば、贅沢はできなくても食べていくことはできるのです。そしてだから、農家は強いのです。そしてなにより、日本人は基本的に農耕民族であります。我々日本人が思い浮かべる故郷とは、里山であり、農山村であり、農のある風景であります。日本人の精神文化・風土には、その根幹に農業があるんだと思っております。年に一度しか収穫できないからこそ、一年間を質素に暮らす。もったいないという発想で、全てのものを有効に活かす。そして、そのために発酵させたり、天日干しにしたり、漬けたりと、様々な技術を開発していく。あるいは、着物などにしても、よく考えられているなと思っております。体に巻きつけて紐で縛るのですから、基本的にフリーサイズです。そんなことに気づいてみると、江戸時代などは、究極の循環型社会を実現していたのだなと、最近つくづく思っているところであります。
 我々日本人の文化・精神風土の根幹には農業があるのです。高度経済成長で物質的な豊かさに溺れ、精神の根幹である農業を疎かにしてきたつけが、今しっぺ返しのように回ってきているのだと思えて仕方ありません。しかし、それは逆に言えば、戦後60年余りの時間を費やしてやっと、何が大切なのかを気づかされているということなのだと思っています。農耕民族である日本人が、農業に回帰していく時代が、今こそ到来したのだと思っております。そしてそれは、昔のままの農業ではなく、今の時代に適応した農業の姿があるはずだと思っております。このような認識の下に、3点の質問を行います。
まず一点目として、土作りについてであります。農業の基本は土だと思っております。科学により、何の成分があれば作物は育つなどいう理論のもとに化学肥料を多用し、結果、形は整っているけれど、量も沢山できるけれど、栄養価はどんどん下がっております。おかげで、農作物の栄養計算の数値を減額訂正せざるおえなくなったのは、もう10年以上前のことだと思います。完全有機栽培で育った作物は、人参でもごぼうでも、生でかじっても甘くておいしいと聞きます。本物の作物をつくることが、食べていける農業の基本であると思っております。そのために必要なのは有機堆肥です。食物残渣などの生ごみ・牛や鶏など家畜の糞尿・人間のし尿などあらゆる有機物を、土に返すために堆肥にすることは考えられないのか、伺います。生ごみやし尿などを、多額の税金を使って処理するくらいなら、土に返して、本物の農作物をつくるほうが、よほど有効であると考えます。堆肥化プラントは様々ですが、中には優秀なプラントもあるようであります。有機物の堆肥化という発想がおありかどうか、本市の考え方をお伺いしたいと思います。

二点目は、農産物の流通による市域内での地域間交流についてであります。地産地消が叫ばれて数年になります。本市の施策としても地産地消を掲げており、農産物の直売所などもできてきてはおりますが、学校給食における地産地消も思うように進んでいるとは言えず、ましてや市民の日々の暮らしを考えれば、地産地消にはほど遠いと言わねばなりません。

合併から三年が経過いたしました。農産物の生産者と消費者という立場での市域内の地域の交流ということを考えてもいいのではないかと思っております。例えば、私は安芸津の人間ですが、安芸津のびわやみかんといった果樹、広島の市場へ出しているのだけれども量がまとまらないので値が崩れるんだという話を聞きました。わざわざ広島市までもっていかなくても、東広島市というわがまちに18万人口という大きな市場があるではないかと思った次第です。

これまでの産直市場は、生産者の地域でつくられております。そうではなくて、消費者の多い地域まで農家が農産物を持ち込む形での産直ということは考えられないのでありましょうか。あるいは、大規模な給食センターができましたが、給食に使う野菜を委託契約で農家につくってもらうことや、米についても県の学校給食会から買うのではなく、東広島産のものを使うなど、そういった生産者と消費者を直接結ぶシステム作りの面で、行政として積極的に関わっていくことはできるのではないかと思っております。このことにより、農家の経営を助けることにもなり、同時に、安心・安全な食を、流通経費がかからない形で市民に提供することができると考えます。生産者と消費者を結ぶ市域内での地域間交流のシステムづくりについての、本市の考え方をお伺いいたします。
三点目として、森林保護に対する本市の考え方を伺います。広島県がひろしまの森づくり事業として、昨年度より、一世帯500円の税負担をお願いしての森林保護の施策を展開しております。本市も昨年度に引き続き、今年度においてもこの事業を実施しているところであります。この事業の目的は、長きにわたる農業の衰退と林業の衰退により、公有林・私有林ともに山林が荒れ、森林の持つ水源涵養機能が低下することによる、土砂崩れの発生、水源の枯渇、水質や大気の浄化機能の低下や海の水質への影響など様々な問題が指摘されるに至り、命の源としての森林を保護しようとするものであると理解しております。このひろしまの森づくり事業が、実際はどのように展開されているのか、果たしてこの本来の趣旨目的に沿った形で事業実施されているのかどうかお伺いしたいと思います。

また、このひろしまの森づくり事業がはじまる以前に、本市が所有しております公有林に対する森林管理の実態はどのようなものであったのか、併せてお伺いしたいと思います。県の事業がはじまるか否かにかかわらず、森林の持つ機能、それは狭い視野で見ていたのでは見えてはまいりませんが、長くて広い視野で見たときの、森林が地球上に生きる全ての命に対して果たしている役割を考えた場合に、森林保護は、けして疎かにしてはならない施策であろうと思っております。本市の森林保護に対する考え方をお伺いいたします。

最後になりますが、先日、大阪から東広島を訪れてくれた30台の女性が、帰る間際に『帰りたくない。ずっとここにいたい。』と申しておりました。何故?と聞いたところ、『時計がなくても暮らしていけそうだから』ということでありました。私の知人の竹垣のつながりで、この間、何人かの関西の人たちが東広島を訪れてくれておりますが、その誰もが、この東広島市を好きになってくれております。最近思うのですが、人は、アスファルトやコンクリートといった人工物だらけのところでは疲れてしまうのだと思います。少なくとも私自身は都会には住みたくないし、住めないと思っております。やはり人間もまた自然の一部なのですから、山や海、土や植物といった自然の中で暮らすほうが、よほど心が安定し、人間らしく暮らせるのだと改めて思っているところであります。自然と共に生きる循環型社会を皆さんとともに再構築していきたいものだと思います。以上で、農業に対する質問を終わります。

教育の分野における、東広島市としての独自性・自主性
次に、地球温暖化対策の具体的方策について質問したいと思います。

地球温暖化対策の必要性については、今更申し上げるまでもないと思っております。ただ感じておりますことは、日本の四季はもっと繊細であったはずだということであります。今は、雨が降らないといえば全く降らない、降るといえば土砂降りのように降る。気温の上昇も尋常ではありません。繊細であったはずの日本の気候が、振り幅が大きくなってダイナミックと言えば聞こえがいいのですが、これまでになかったような、極端に走ったようになっております。そんなことを日々感じながら、やはり地球は温暖化しているのだと感じている次第であります。

今必要なことは、地球温暖化対策の必要性を説くことではなく、何をするかということだと思っております。本市の地球温暖化対策に対する姿勢を見たときに、様々市としての対策を検討されておりますことは承知しております。しかし、何をどうすればいいのかと手をこまねいているというのが本質なのではないでしょうか。本気でこれに取り組むんだという熱意のようなものは、残念ながら私のところには届いてきてはおりません。
 例えば新庁舎を建設するのであれば、太陽光を利用して庁舎で使うエネルギーは賄うくらいのことをしてはどうかとお尋ねしたところ、視察に行ったけれど、経費がかかる割には効果がないということでありました。パフォーマンスにしかならないのであれば、やめたほうがいいと思った次第であります。しかしそれにしても、日本の太陽光エネルギーの技術がヨーロッパではどんどん普及しているそうであります。何故日本では普及できないのか不思議で仕方がありません。

日本には多くの技術があります。使用済みの天ぷら油を燃料に変えることや、プラスチックを燃料に変えることもできるそうであります。日本のものづくり技術開発の知恵は、世界トップクラスだと思っております。しかし、その技術と知恵を社会に広く普及していくシステムづくりが、決定的に日本では欠けているのではないかと思えてなりません。それはつまり、政治・行政の問題であるのだと思います。行政の側に、そういった世界トップクラスの技術や知恵を活かす知恵がないということではないでしょうか。

そこで、地球温暖化対策について、具体的に何をするかということではなく、どう発想すればいいのかという提案をしてみたいと思います。それは、『横につなぐ』ということであります。行政にそんなに知恵があるとは思えません。それなら、知恵のあるところに任せてみてはどうか、ということです。この東広島市は、学術研究都市を自認しております。せっかく知恵の集積である大学があるなら、何故活かさないのか、知恵を借りないのかと思えてなりません。例えば、新庁舎建設にあたって、エネルギーを最大限抑える方法はないか、とか、ゴミとして処理しているものを活かす方法、具体的に何のゴミに困っているのかを提示し、相談してみたらいかがでありましょうか。

つまり、大学の知恵と行政の暮らしを預かる組織をリンクさせる。あるいは、何をすればいいかがわかったら、今度は、実行に移すために、地域の自治会や企業・団体の力を借りる、など、分野ごとにそれを得意とする人たちは必ず存在しているのでありますから、地域のなかからそういう人たちを見つけだして、力を貸してもらう。そうやって、人と人を横につないでいくことで、どんな困難も解決していけるのではないかと思っております。縦割り行政の弊害は、こんなところでもでてきていると思えてなりません。自分ひとりが責任を持ってなんとかしなければと思うのはご立派だとは思いますが、それより、それぞれ得意としている人や組織に任せて、力を借りて、行政は縁結びの役割に徹してはどうかと思っております。昨年6月の一般質問で、私が市役所の職員はコーディネーターだと申しましたのは、まさにそういう意味であります。

東広島市の中に潜んでいる、たくさんの人たちの知恵と力を結集できれば、どんな困難にも対応できると思っております。地球温暖化という今人類が直面している困難に立ち向かうまちとして、世界に向けてわが東広島市から発信していけるような、そんなまちを目指してまいりたいと思っております。どのようにお考えか、ご所見をお伺いいたします。
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