平成19年9月 第三回定例会一般質問
『今、日本の最重要課題は、人間育成』

東広島市議会議員 宮川誠子
『今、日本の最重要課題は、人間育成』
大変ご苦労様でございます。真生倶楽部の宮川誠子でございます。
発言の機会を与えていただきましたことに感謝いたしながら、一般質問を行ってまいりたいと思います。

 私は、青少年育成・人間育成としての教育全般につきまして、あらゆる角度から、教育の捉え方を論じてみようと思います。そして、執行部の皆様、議員の皆様、更には市民の皆様方からご批判をいただきながら、真摯な議論を通して、この教育という極めて重要な分野における東広島市の進むべき方向を、皆様と共に指し示して行くことを目指しまして、この一般質問に臨んでまいりたいと思っております。

先日、ある大学の教授からお手紙をいただきました。その中で、「今、日本の最重要課題は、人間育成だと思っています」と書かれておりました。私も、全く同感であります。

いじめや児童虐待などなど、そしてそのあげくに起こる悲惨な事件、今、この日本で起こっている理解しがたい現実が、連日報道されています。誰もが「どうにかしなければ」と思いつつ、その解決の糸口さえ見つからないまま、右往左往しているという姿に見えて仕方がありません。そして、教育の方向を指し示す国さえも、「ゆとり教育」から、授業時間数の一割増などの軌道修正を余儀なくされ、右往左往している姿を露呈してしまっていると言えるのではないでしょうか。これらは正に、『大人が迷っている』という姿を現しているのではないかと思っております。

子供の世界は、大人の世界を写す鏡であります。子供は、良くも悪くも親の背中を、そして周りの大人の背中を見て育つのです。大人が迷うからこそ、子供が迷い、不安定になるのだと言わねばなりません。

そして、子供の世界に起こっている不幸な事象は、その全てが、子供の心の不安定が原因であります。そうであるならば、学力の向上もさることながら、心の安定こそが、今、早急に求められている課題であると言わねばならないのではないでしょうか。

そこでお尋ねします。6月の議会全員協議会において、青少年自立プランのパンフレットについて説明を受けました。その中で、青少年の健全育成のために、本年度から「家族揃って夕食キャンペーン」を市の事業として取り組むということでありました。正直に申し上げて、私は何も申しませんでしたが、思わず『本気ですか?』と思ったのを覚えております。本当に、家族が揃って夕食を食べるということが、青少年の自立に役立つとお考えなのでしょうか、お伺いしたいと思います。

家族が揃って夕食を食べるという形が悪いことだとは思いません。しかし、肝心なことは、そんな形ではないということではないでしょうか。いくら形を繕っても魂がなければ、なんの意味も持たないと思えてなりません。逆に、どんな形であろうと、子供にとって一番重要なことは、親から愛されているということをしっかり心に受け止めているかどうかだと思っております。日常に会話などなくてもいい、親は自分のために必死で働いている、そう思えたら、それだけで子供の心は安定するものだと思っております。

知り合いの大学の准教授に、家族揃って夕食キャンペーンの話をしたところ、「そんなことより、食事を手作りすることのほうが、よほど有効だ」と申しておりました。なるほど、家族揃って外食するより、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、親が台所で料理をしてくれている姿を見ることのほうが、よほど子供の心は安定するであろうと思えました。

家族揃って夕食キャンペーンを青少年の自立プランとして取り組むという姿勢の中にも、私は、大人の迷いを感じてしまいました。そこで、伺います。東広島市の教育行政は、教育における様々な問題が起きている原因は何であると捉えておられるのか、そして、進むべき方向性はどこにあるとお考えなのかお伺いしたいと思います。
私は、今日のこの社会の混沌と大人の迷いは、価値観の多様性に起因するものだと思っております。かつて、日本は、諸外国に例を見ない礼儀正しい国として、他国から尊敬される精神文化を有している国でありました。「卑怯な真似はするな。弱いものいじめはするな。人に優しくあれ。長老者を敬え。人のせいにするな。」など、人としての美学が存在しておりました。いかに金を儲けるかということより、人としていかに生きるかに重点が置かれた精神風土を有していた国であったと思っております。しかし、敗戦とともに、豊かであるということの方が、価値が重くなり、物質という物差しで測られることに慣らされてしまった結果、誰もが生きる価値を見失ってしまったのではないかと思えてなりません。役に立つかたたないかによって人を測ることが第一義となり、存在そのものが尊いものだという価値観は薄らいでしまったと感じております。

私は、もう一度、社会の価値観の中心に、武士道精神にも通ずる人間の尊厳と誇りを取り戻すべきだと思っております。人として一番大切なもの、価値のあるものは、物質や目に見えるものの中にではなく、目に見えないもの、それは崇高な精神や人の心などですが、そういう目に見えないものの中にこそあるということを、しっかりと社会の価値基準として据えることが必要なのだと思っております。

そして、大人が自信を持って背中で生き様を見せていれば、自然に子供は安定する。それだけのことだと思っております。

昨今、「規範意識」という言葉がよく使われるようになりました。私も、肝心なのは規範意識だと思っております。しかし、問題は、どうすれば規範意識を醸成することができるのかということであります。いくらスローガンを掲げても、呪文のように唱えても、規範意識が育つとは、とても思えません。

「三つ子の魂百まで」と申します。人として肝要な価値観は、幼いころから叩き込むことが重要だと思っております。「何故人を殺してはいけないのか」など、肝心なことは、理屈ではありません。肝心な価値観は、理由はないのであります。駄目なものは駄目と押し付けることこそが肝要なのかもしれません。そしてなりより肝心なことは、『畏怖心』を持たせることだと思っております。この世には、超えてはならないもの犯してはならないものがあるということ、絶対的な価値というものがあるのだということ、絶対的な価値に対して畏れる心を持つということが、人間の奢る心や不遜な行動を規制できる唯一のものだと思っております。

法律でいくら規制しても、厳罰化したとしても、畏れる心がなければ、「ばれなければいい」「誰も見ていないからいい」となってしまうだけではないでしょうか。

私の好きな言葉に、「天知る、地知る、我知る、人知る」という言葉があります。これは、誰も見ていなくても、天と地と自分だけは、自分のしたことを知っている。そして、人様もいずれ知ることとなるのだから、人として恥ずべき行動はするな、という意味であると教わりました。恥を畏れ、人知を超えた存在があることを畏れるという文化こそ、日本の伝統的な精神風土であったと思います。

そしてまた、『学ぶとは、尊敬して真似ること』という言葉があります。人は、自分が尊敬する人のようになりたいとの思いから、その人を真似、そして成長していくものだと思います。

私が子供の頃、学校の先生は偉い人だと思っておりました。少なくとも、自分が知らないことを教えていただく相手に対して、敬意を持つのは当たり前のことだと、今でも思っております。

今の世の中、簡単に人を非難しすぎていないかと思えてなりません。

そしてまた、責任という言葉の使い方を、現代人は間違っていると感じております。本来、責任という言葉は、自らを律する言葉として存在していたものではないかと思っております。しかし、現代においては、他人を追及するためにだけ使われていると思えて仕方がありません。自分の責任は棚に上げて、人の責任のみを追及するという姿を子供が見て、どう思うのでしょうか。人様を尊び、敬い、感謝する大人の姿を見せない限り、子供に、人を尊敬する心は生まれないものと思えます。

あるいは、虎はわが子を千尋の谷底に突き落とすと申します。親の愛情とは、親がいなくなっても子供がひとりで歩いていけるように自立させてやることだと教えてくれております。どんな困難があろうとひとりで這い上がる力を持たせることが一番の愛情ではないでしょうか。子供にちやほやすることは、親のエゴでしかなく、万に一も子供のためにならないということを知るべきです。困難に立ち向かうわが子を、手を出さず見守り、側に寄り添うということの方が、よほど親として立派であると思えてなりません。人が生きるということにおいて、どんなマニュアルも通用しないのであります。困難を体験し、生きる知恵を身につけ、自力で這い上がることでしか、人は成長しないと思っております。

そして、それこそが、教育長の言われる「人間力」であろうと思います。学力と人間力は全く別のものだと思っております。学力のほとんどは知識です。どんなに知識があっても、知識を駆使する考える力とでも申しますか、発想力・知恵がなければ、知識など何の役にも立たないものだと思っております。知識は道具にすぎません。道具は使いこなすことができなければ、意味を持たないのと同じことだと思っております。

そうであるならば、「人間力」こそが、人間育成において、一番重要な課題であると思えてなりません。それさえあれば、どんな状況であろうと、しっかりと自分の足で歩いていくことができるのですから。

色々申しましたが、人間育成における私の問題意識の一端を述べさせていただきました。どのようにお考えか所見をお伺いしたいと思います。


次に、教育の分野における、東広島市としての独自性・自主性というものはお持ちなのかどうか、そしてそれはどういうものであるのかお伺いしたいと思います。

教育の分野においては、国が指導要領を定めるなど、全国画一の教育というものを目指してきているという背景もあり、自治体が独自の方向性を持つということは、困難とも思える分野であるとは認識しております。しかし、文教厚生委員会の視察に参加させていただき、山形市にまいりましたが、山形においては、市独自で教育関係者をバックアップするセンターを運営しておりました。山形市の教育に対する並々ならぬ思いを感じ取ったものであります。

国が指針を指し示したと言っても、全て国に従うということではなく、東広島市の教育行政に携わる者としての思い、熱意が肝要かと思われます。

例えば、学校の評価制度というものが導入されております。誰がどんな基準で評価するのであろうかと思うところではありますが、肝要なことは、人様の評価に振り回されない、自らの信念を持ちえているか否かだという思いがしております。東広島市の信念は、どのようなものでありましょうか、お教えいただきたいと思います。

少し話が反れますが、学校評価制度のことについて、少し思いを述べさせていただきたいと思います。教員の皆さんは、シラバスで事務に追われ、更に、学校評価制度でまた事務に追われ、これでは、子供たちと触れ合い、子供の様子を見る時間など益々なくなってしまうのではないかと、どんなに良くしようと思って制度を導入したとしても、元も子もないということになりはしないかと、実は、心配しております。そしてまた、学校を評価するということに、それほど大きな意味があるのであろうかと、内心疑問を感じておることも確かであります。児童や保護者が学校を評価するということは、一体何なんだろうと思えてなりません。自分の知らないことを教えて貰う側が、教える側を評価する。与えられる側が、与える側の品定めをする。これでは、尊敬や感謝の心など育つ余地もないと思えて仕方がありません。ご議論いただければ幸いでございます。

話を、市の自主性・独自性に戻したいと思います。私は、是非とも、日本語を大切にしていただきたいと思っております。かく言う私の日本語も怪しいものがあるかもわかりませんが。

義務教育は、少なくとも日本人として通用する人間を育てていだきたいと思っております。昨今、母国語である日本語が随分と怪しくなってきております。少し難しい漢字が読めない。ことわざも四字熟語も知らない。そんな日本人が増えすぎてしまっている一方で、ディスクロージャー・アカウンタビリティ・コンプライアンスなどなどと、他所の国の言葉をわざわざカタカナにして流行らせる。最近、私は辟易しております。いつまで、アメリカかぶれを続ければ気がすむのであろうかと思っております。言葉には歴史と文化・精神風土が溢れております。人の為と書いて偽となります。信じる者と書いて儲けるとなります。これは、最初に申し上げた大学教授に教えていただいたことですが、日本語には、その精神性の高さを窺わせる言葉が沢山あります。

そして、言葉は思考であると言われております。言葉を十分に使うことができなければ、考える力も弱いということであります。是非とも、国語力の向上に力をいれていただきたいと思ってやみません。

そして、同時に、読書の大切さも訴えておきたいと思います。文字を追うことによって、想像力を働かせ、個々人の感性により場面を思い描くというのが読書であります。想像力や感性を鍛え、若い多感な時代に感動する心を磨くということは、心の機微に触れる感性豊かな人間を育てるために重要なものだと思っております。是非とも、本を読む機会を多く与えることに力をいれていただきたいと願っております。どのようにお考えか、所見をお伺いいたしたいと思います。以上で、私の初回の質問を終わります。ありがとうございました。
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