平成19年12月 第四回定例会一般質問
福祉には思想が必要
 ―人と人との支え合いが福祉の基本―

 
高度情報化社会の危険性−デジタルの過信は危険を招く−
 
 
東広島市議会議員 宮川誠子
福祉には思想が必要 ―人と人との支え合いが福祉の基本―
皆さん おはようございます。本日のトップバッターを務めさせていただきます。宮川誠子でございます。 初心を忘れることなく、この場に立たせていただいておりますことに感謝いたしながら、一般質問に臨んでまいりたいと思います。

まず最初に、『福祉には思想が必要』と題しまして、福祉行政のあり方について論じてまいりたいと思っております。実は私は、 今日の福祉行政の方向性にいささかの疑問を感じているものであります。誤解を怖れず、私の思いを率直に申し上げ、皆様のご批判をいただきながら、 真摯な議論を通して、福祉行政の進むべき方向性を見出すことを目的といたしまして、一般質問に臨んでまいりたいと思っております。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

私の住んでおります安芸津町は、平野部が少なく、少し歩くと丘陵地帯であります。その坂道を息を切らせながら歩いておりますときに、 坂・つまり障壁ということについて考えておりました。思いましたのは、昔の人は不便を楽しむという心の余裕を持っていたのではないか、 ということであります。

昨今、バリアフリーが声高に叫ばれております。まるで、福祉の代名詞のように使われております。私は、あえて、申し上げたい。 バリアなどフリーにしなくてもいい、と。こう申し上げると、日本中を敵にまわして、皆さんから袋叩きにされそうではありますが、 別に、本当に、段差をなくすことが悪いことだと申し上げているわけではありません。申し上げたいのは、目先の段差をなくすことだけに目を奪われて、 福祉の本来の姿を忘れているのではないか、ということであります。

今日福祉と言えば、障害者や高齢者、女性や子供などに対する施策のことを指しているように用いられておりますが、本来福祉とは、 行政の目的そのものが、住民の福祉の増進と規定されておりますように、行政が行っておりますことは全て福祉であり、人々の暮らしに関わることは 全て福祉であります。人はひとりでは生きていけないからこそ、社会を形成しております。そして社会とは、人と人とのつながり、 人と人との支えあいであります。つまり、福祉とは、人と人との支えあいこそがその根幹であるということを強調しておきたいと思います。

次に、近年の福祉のあり方、その方向性について考えてみたいと思います。バリアフリーの発想は、どこから来たのでありましょうか。確かに、 段差がなければ、便利であります。車椅子の方たちだけでなく、高齢者や私のように運動不足の人間にとってもつまずくこともありません。 でもそれは、逆に、人の助けを借りなくて済むという状態をつくりだしていることになってはいないだろうか、と思えて仕方がありません。 この間の福祉の方向性が、人の助けを借りずにひとりで何でもできるようにする、ということを追求しすぎているのではないか、と思っております。 段差をなくし、様々な道具を開発し、確かに便利になりました。そして、誰の助けも借りずに生活していけるかのような幻想さえ抱かせるほどの 目覚しい開発がなされております。

以前、テレビのニュースを見ておりまして、車椅子生活の若い女性が、バリアフリーの整った近代的なマンションで一人暮らしをしていて、 ベッドの上で、火事となり、しかもそれは、大きな火事ではありません。火元がなにかは覚えておりませんが、足元から火がついて、 逃げることができず、消防が到着したときには、ベッドの上で下半身が焼けて亡くなられていたという報道を伝えておりました。そのとき私は、 これこそ、現代の福祉のあり方の犠牲者だと思ったのを覚えております。

あるいはまた、尾道は坂の町であります。その尾道では、車を押して食料などを売って歩く行商人の方々が現在でも健在だという話を聞きました。 一人暮らしのお年寄りなどは、買い物に行ったとしても、お米などの重いものはとても運べません。そこで、行商人の方に頼んで、買ってきてもらい、 一緒に運んでもらうという文化が、今でも残っているそうであります。

最初に申し上げました。福祉の基本は、人と人との支えあいであります。困ったときには、『助けて欲しい』と言える社会であるということが、 福祉の基本なのではないでしょうか。そして同時に、子供たちに、『困っている人は助けろ』と教える文化であって欲しいと思うものであります。 もちろん、便利なものは利用すればいいとは思っております。しかし、便利にすることばかりが先行したのでは元も子もないということ、 少々不便であったとしても、人同士が支えあうことで問題を解決していくという発想さえあれば生きていける、いや逆に、それこそが人が生きて いくということにおいて ―それは、障害者や高齢者だけでなく全ての人において、と申し上げておきますが― 人が生きていくということにおいて 一番大事なことであるということを忘れてはならないと思っているところであります。

・思想のない福祉政策は自立と放任を間違える
以上申し上げましたように、福祉には思想が必要だと思っております。思想のない福祉政策は、自立と放任の違いもわからないものとなります。 少し余談になりますが、自立とは、人様の助けを借りないで生きるということではありません。自立には、精神的自立がその基本になくてはならないと 思っております。どんな人間も不完全なものであります。自分の足りない部分をも含めて自分の全てを、受け入れるということ、自分の欠けた部分を 認められること、それが自立だと思っております。自分にできることは自分でする。自分にできないことは、人様の助けを借りる。自分の欠けた部分を 認められない人間には、素直に人様に『助けて欲しい』とは言えないものであります。

あるいは、助けてもらうのが当たり前とする風潮があるようですが、とんでもないことであります。世の中に当たり前のことなどなにもないと思っております。 当たり前でないからこそ、感謝するのではないでしょうか。

自分の足りない部分を認め、人様の助けを借り、そして助けてもらったら感謝できる人間が、自立した人間であると思っております。逆に、『人の助けを求めるな、 ひとりで生きろ』というのは、自立支援ではなく、放任と申します。

現在の福祉政策の中にも、あるいは福祉に携わる人々の中にも、このような自立と放任の混同が見受けられるのではないかと思っております。 福祉には思想が必要だと考える理由がそこにあります。そこでお尋ねいたします。福祉のあるべき姿はどのような姿であるとお考えか、 ご所見をお伺いしたいと思います。

・個人情報保護が福祉の弊害となっている
次に、福祉の現状と課題についてお伺いいたします。

昨今、個人情報を守るという趣旨で個人情報保護法が制定されて以来、過度の情報保護のために、返って必要な施策の弊害となっている例が多く見受けられて いるように感じております。

ひとつの例ですが、ある民生委員さんが、自分の担当の地域で、一人暮らしのお年寄りが、孤独死をされたことで、自分を責めておられたという話を聞きました。 担当の地域であったとしても、どこにどんな人がおられるのかを、個人情報保護の名目で、教えてもらうことができなかったという嘆きの声が聞こえてきました。

皆さんの良心にお尋ねしたいと思ってやみません。おかしいとは思いませんか。私は、個人情報保護法の制定以来、これはおかしげなことになったものだと、 ずっと思っておりました。何故かと申しますと、法律で規制して、その法律を守るのは、個人情報を悪用する意思のない人ばかりであります。 悪用しようとする人たちは、はじめから法規制など意味を解しておりません。つまり、法の趣旨は全く通らず、善意の人たちの善意の行動のみが 規制されてしまっている、というのが、現在の個人情報保護法の実態ではないかと思えて仕方がないのであります。

私は、声を大にして言いたい。守るべきものは一体何なのかを、大切なものは何なのかをしっかりと判断して、法を運用すべきであるということであります。 つまり、情報を悪用するのでなければ、情報は公開するべきである、ということであります。

もしも災害が起きたときに、どこにどういうお年寄りがいて、どこにどういう体の不自由な方がおられるという情報なくして、適切な対応などできるはずが ありません。そしてそれは、緊急時・災害時だけに対応しようと思っても無理なのであります。情報は刻々と変わります。昨日元気でおられた方も、 今日どうなっておられるかはわかりません。であればこそ、日ごろから、隣近所の人たちがそういった情報を共有しているということこそが大切なのであります。 ましてや、福祉に携わる民生委員の方や地域の福祉活動をされている組織や個人が、そういう情報を知らずして、なにをやするのか、と言わねばなりません。 どのようにお考えか、ご所見をお伺いいたしたいと思います。

・画一的な施策でなく個性・特性を活かす施策を!
福祉の現状と課題につきまして、もう一点申し上げたいことがございます。それは、『公平』ということについてであります。公平、いい言葉であります。 しかし、よくよく考えてみますと、公平とは一体なんであろうかと、公平なんてものが世の中に存在するのかと思えて仕方がないのであります。何故なら、 この世の中に、ふたつとして同じものはないからであります。

福祉行政だけではありませんが、地域には地域の歴史があり、成り立ちがあり、文化があります。それが個性・特性というものだろうと思っております。 それぞれに違うからこそ、必要な施策も自ずと違うものとなります。そして、だからこそ、地方分権が必要なのだと思っております。

公平という言葉は、一見素晴らしい概念に思えます。しかし、現実に照らしてみたときに、公平という言葉でなされているのは、低位なものを引き上げる ということより、突出したものを引き下げるということに使われることのほうが多いように感じております。合併協議のおりに、福祉政策において、 優れた施策を断念せざるをえないということがありました。その理由は、他の地域では不可能ということでありました。過去にこだわるつもりは何もありませんが、 平準化とは、そういうものであろうと思ったところであります。

現実的には、その地域に、あるいはその個人に、一番必要な施策を講じることこそが求められているのであり、それぞれ必要としているものが違う全体に対して、 公平の名の下に、画一的な施策を講じるというのは、効率性を欠くことにもなり、また、個性を殺すことにもなりかねない危険性をもはらんでいるのではないかと 思っております。

本来は、公平の概念を保ちつつ、しかし、それぞれの特性を加味したうえで、更に、突出したもの−それは、別の言葉で言えば魅力というものだと思って おりますが−その突出したものを更に伸ばし、そして周りに浸透させていくという、画一化ではない、高度な判断力が必要なのであろうと思っております。 どのようにお考えか、所見をお伺いしたいと思います。

・福祉の進むべき道
次に、福祉の進むべき方向性についてどのようにお考えかお伺いいたします。さきほどの個人情報の話ともつながるものでありますが、どこに誰が住んでいて、 どのような状況であるのかという情報を、地域の福祉・医療に携わる組織及び隣近所の地域の人たちが共有し、共に支えあうということが是非とも必要なのだと 思っております。

そして、このことにおいて弊害になっているのは、縦割り行政なのではないかと思っております。人の暮らしは、そもそも一連のものであります。 分野毎にきれいに分けられるものではないことは、ご理解いただけると思います。

例えば、ある一人のお年寄りが病気になられたと仮定します。まず、病院に入院され、退院後、介護が必要であった場合に、在宅で介護するのか、 その場合、どのような福祉サービスを受けるのか、同時に、医療の分野でどうサポートするのか、あるいは、地域のボランティアの人たちはどう関わればいいのか、 など、いろいろなパターンに応じて、様々な関連の施設や個人の関わりが必要となります。

現在では、個人が、病院から退院していいといわれた段階で、どうしたらいいのかと、次の病院を探したり、福祉施設を探したりと、右往左往しているのが 実態ではないでしょうか。

このときに、医療と福祉、そして地域をも含めた連携のもとに、個人の情報を共有し、個人を中心に適切なサービスを提供するサポート体制があれば、 個人の不必要な不安は最小限に抑えられ、効率的な、そして人の心に届く福祉・医療の実現に近づけるのではないかと思っております。行政の都合で分野ごとに 分けられている壁を低くし、横につなぐということなのではないでしょうか。

長々と申し上げましたが、私は、福祉の進むべき道のキーワードは、正に、情報を共有し、そして、人と人をつなぐ、人と人との支えあいだと思っております。 どのようにお考えか、ご所見をお伺いいたしたいと思います。
以上で、福祉の関係の質問は終わります。

高度情報化社会の危険性−デジタルの過信は危険を招く−
次に、高度情報化社会の危険性についてであります。

ITが叫ばれて十数年になるのでしょうか、ウィンドウズ95の発売以降、情報技術は目覚しい発展を遂げております。そして現在においては、ユビキタス社会の 実現と言われており、いつでも・どこにいても・誰とでも・簡単につながるネットワークと銘打って、いかにも理想的な社会が実現するかのような宣伝が なされております。

私は、「高度情報化社会になれば、薔薇色の生活が実現する」と唱える現代の風潮に、実は、眉をひそめておるもののひとりであります。そこで、敢えて、 これらデジタル化の危険性について警鐘を鳴らしておきたいとの思いで質問を行ってまいりたいと思っております。

情報は、先程の福祉の話でも申しました通り、非常に大切なものであります。しかし、真に価値のある情報とは、正確な情報であります。 一部が隠された情報は、間違った情報であり、間違った情報がもたらす結果は、判断の過ちをもたらす結果に陥ることに他なりません。正確な情報が ないというのも困ったものではありますが、間違いだらけの情報が氾濫して、適切な判断を阻害するということのほうが、もっと困りものではないかと 思っていることも事実であります。


・「簡単につながるネットワーク」は「簡単に切れる人間関係」
ネットにつながることができない人たちを情報弱者と呼ばれるむきがあるようですが、果たして、コンピューターにつながることをよしとしない人たちが、 本当にネットの情報を欲しがっているのであろうか、つながりたいと思っているのであろうかと、首をかしげておるところでございます。 『いつでも・どこでも簡単につながるネットワーク』とは、『簡単に切れる人間関係』ということに他ならないのではないでしょうか。人間関係とは、 面倒なものです。そして、面倒だからこそ、面白いと思っておりますし、様々な面倒を通してでしか、信頼できる絆をつなぐことはできないものだと思っております。

そしてまた、ネットの情報は、怪しい情報が非常に多いということは、ネットを使いこなす人なら誰でも知っているところであります。自ら取捨選択する ことができなければ、ネットにつながるということは、真偽入り混じった情報の氾濫の中で溺れることを意味するのだと思っております。


・デジタルは生身の世界に勝てない
福祉の基本は、人と人との支えあいであると申しました。ここでも同じことを言いたいと思います。人間社会の基本は、人と人が出会い、顔を見ながら 会話することであります。そのアナログの世界が基本にあってはじめて、そのアナログの世界を数値化し、小数点以下の情報は切り捨てる中で、 アナログの世界を真似たものがデジタル技術であります。どんなに技術開発が進んだとしても、デジタルはアナログの真似でしかなく、アナログを超えることは できません。ロボットが人間に近づけたとしても、人間にはなれないのと同じことであります。

何が言いたいのかと申しますと、デジタルだけに頼るのは危険であるということであります。例を出せばきりがありませんが、例えば一昨日の一般質問の答弁の中で、 消防の指令システムの説明をされておりました。通報があると瞬時に、その位置の図面が画面表示されるとのこと、確かに素晴らしいと思います。しかし一方で 感じましたことは、もし、その指令システムがパンクしたときにはどうなるのであろうかという心配でありました。言うまでもなく、地震などの災害時には、 高度な機器ほど役に立たないものであります。もちろん、消防のことでありますから、災害時でも対応できるシステムになっていると信じてはおりますが、 デジタル技術が使用不可能になったときに頼りになるのは、生身の人間の判断と、アナログで身につけた経験、そしてアナログの情報でしかありません。

デジタルを過信し、デジタルだけを頼りにしていたのでは、いざというときに何もできない人間ばかりをつくってしまうのではないかと思えてならないので あります。現在はまだ、アナログの経験がある人たちが元気で社会で活躍されておりますから大丈夫であろうと思ってはおりますが、これから先、デジタル しかわからない人間が、コンピューターがなんでもやってくれて、例えば構造計算の仕組みもわからない、間違っていてもわからないということが起こるのは それほど遠い未来のことではないのではないかと心配しております。

高度情報化は、あくまでも便利な道具であります。それ以下でもそれ以上でもありません。このことを、しっかりと理解した上で、そして、生身の世界が基本であり、 アナログの基本を理解した上で、便利な道具として使いこなさなければならないということを、我々はしっかり認識しなければならないのではないでしょうか、 そしてこれからネットを使っていくことになる子供たちにも、しっかりと教えていかなければならないのだと思っております。

高度情報化社会の到来が、まるで理想的な社会であるかのような、ネット神話を語ることによって、デジタルを過信してしまい、ネットでのいじめで自殺する などの悲惨なニュースに触れなければならない結果になってしまうのだと思えて仕方がありません。いかがお考えか、ご所見をお伺いいたしたいと思います。

以上で、私の一般質問を終えたいと思います。ありがとうございました。

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