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政治を侮るなかれ
毒入りぎょうざ
記憶
命の尊さ
議員バッジ
気違いに刃物
日本語を大事にしたい
責任能力と贖罪
自由と自己責任
これで国を守れるのか
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2008年2月22日(金) 晴れ Vol.20
これで国を守れるのか
イージス艦が漁船と衝突し、漁船の父子が行方不明である。
イージス艦の情報が二転三転したり、大臣への情報伝達が遅れたり、
どうも、自分たちの保身で情報操作している節が見受けられる。

国を守るための軍隊が、保身を考える。
これはもう、役人に成り下がったか、という感をぬぐえない。
組織の保身、自らの保身しか考えられない輩に、国を守ることができるとは思えない。
自分を守ることに精一杯な人間には、他人、そして他人の集合体である国を、守ることなどできないであろう。

情けない限りである。
ここまで、日本は、平和ぼけしてしまっているのか。
自衛隊さえも、この体たらくか・・・

漁船に乗っていたお父さんの弟にあたる方が、言われていた。
『冬の海に投げ出されたら、人間が何分生きられるかはわかっているはずだ。こんなやつらに、船に乗る資格はない。』と。
重い言葉である。

一方、防衛大臣の辞任を求める声が強まっているらしい。
大臣の首を取れば済む問題ではない。
大臣だけが責任を取り、現場の張本人が責任を免れるようなことがあれば、組織は、何も改善されない。
こんなことになった原因を追究し、組織を立て直すことが最優先である。
その責任を果たした後に、きっと石破大臣は自ら辞任する人であろうと、信じている。


2008年2月21日(木) 晴れ Vol.19
自由と自己責任
昨日の深夜、アメリカ大統領選挙のドキュメンタリー番組を見ていた。
アメリカには、国民皆保険制度がないらしい。
医療保険は、民間の会社が提供しており、加入していない人は、全額負担となる。
そして、医療機関は、保険に入っていない人の医療は拒否するということである。
手術が必要でも、本人が望んでも、後回しにされるのが、当たり前らしい。

もしこんなことが日本で行われたとしたら、金で命を差別するのかと、大きな社会問題になることであろう。
しかし、これが、自由の国アメリカの常識なのである。

つまり、自由の裏側には、徹底的な自己責任の理念があるということである。
自分を守るのは自分でしかなく、自分が金を儲けられなければ、医療も受けられなくて当たり前という自己責任を、
背負った上で、だから、自分の自由を主張する。
これこそが、自由の国アメリカの自負であり、アイデンティティなのであろう。

国には、国の成り立ちと文化、精神風土がある。
こんな厳しい個人主義の考え方は、日本の社会には、合わない。
日本には、日本の文化があり、精神風土がある。
それなのに、その根幹となる厳しい理念は放っておいて、自由という都合のいい考え方だけ輸入してしまった今の日本。
だからこそ、無責任に自由と権利だけを主張して平気な人たちが増えてしまったのではないか、と思えて仕方がない。

都合のよさそうな価値観を、あちこちから取ってきた、継ぎはぎだらけの社会が、地に足の着いた社会になるはずがない。
日本には、日本人の骨身に染み付いた精神風土がある。
大切にすべきものは、日本人の精神風土に合った価値観であると思えて仕方がない。

2008年2月18日(月) 晴れ Vol.18
責任能力と贖罪
統合失調症の男が、生後すぐの乳幼児を殺害した事件の判決が出たという。
統合失調症とは、昔で言うところの精神分裂病のことである。

この類の事件が起こる度に、犯人の責任能力が議論になる。
一番有名な例えは、酔っ払ってした約束は、
本人に正常な判断をする能力のない状態であるので、無効であるというものである。

日本の法律がそうなっているので、判決を責めることはできないのであろうが、
中には、罪を軽くする手段として、責任能力がなかったと証明するために、
精神分析を多用する傾向もある。

思うに、精神状態が正常で、人間は人を殺せるものであろうか。
犯罪を犯す時、人の精神は多かれ少なかれ、まともではないと思える。

責任能力があろうがなかろうが、
犯した罪に対して、贖罪するのは当たり前だと思っている。
本人が自覚していようが、いなかろうが、
人を殺せば、命で贖う(あがなう)ということでいいのではないか、と思えてならない。

2008年2月15日(金) 晴れ Vol.17
日本語を大事にしたい
学習指導要領が新しくなったらしい。
小学校で、英語を教えるということである。

英語が話せれば国際交流ができると思ったら大間違いだ。
国際交流とは、国の成り立ちも文化も違う者同士が、お互いの違いを認め合い、交わることを言う。
自らの国の文化を持たない人間には、国際交流はできない。
英語がしゃべれたとしても、世界は相手にしてはくれない。
自国を持たない国際人などないのである。

以前、中国新聞の一面に、『漱石って日本語?』という見出しが躍っていた。
高校生のほとんどが、日本が誇る文豪、夏目漱石を読んだことがないと言う。
そして、読んだことのある一部の高校生が、『漢字が多すぎて、日本語とは思えなかった』と言ったらしい。

この記事に、私はショックをおぼえた。
漱石の『草枕』の冒頭。
『知に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。』
とある。極めて有名な一節だ。

私は、この後に続く言葉が、今でも気に入っている。長いので省略するが、
人の世をつくっているのは、鬼でもなければ蛇でもない。向こう三軒両隣にちらちらする、ただの人である。
人の世が住みにくいからと言って、越すところはない。
あるとすれば、「人でなし」の世に行くばかりだ。

記憶をたどって書いたので、原文とは少し違っているかもしれないが、そういう意味であったと思う。
けだし名言であると思う。

日本語は美しい。
それは、精神の美しさである。
日本語を大事にしたいものだと思ってやまない。

2008年2月10日(日) 晴れ Vol.16
気違いに刃物
大相撲の死亡事件が報じられている。
元時津風親方の命令は絶対的で、兄弟子たちは、親方の指示がない限り、
稽古と称したリンチをやめることができなかったということである。
権力を持つものの立場、身の処し方を、反面教師として教えている。

権力は絶対的なものである。
そうでなければ、秩序が乱れる。
そして、その絶対的な権力に位置する人間は、己の権力の大きさを知り、
だからこそ、その立場に相応しい人格を備えたものでなければならない。

帝王学とは、そういうものであろうと思っている。
自らの立場、その発言・行動の影響力の大きさを自覚し、
だからこそ、自分ひとりの欲で物事を判断せず、
常に、自らのなすべきことを考える。
そのことに、自らの命を捧げる。

その最たるものが、天皇であろうと思っている。
天皇家の人たちは、一分一秒たりとも己のために生きてはいない。
命を国民に捧げておられる方を、その国民が敬意の念を抱かなくてどうする、と思っている。

そんな自覚も覚悟もない奴に、権力を持たせると、こんなことが起こるのである。
気違いに刃物、という言葉が浮かんでしまった。

2008年2月9日(土) 晴れ Vol.15
議員バッジ
昨日、安芸津町出身職員と安芸津支所の職員と安芸津出身議員との懇親会があった。
参加者は81人であったらしい。
最初の挨拶で、議員のひとりが『先生と呼ぶな。後でバッジをはずします。』と発言した。
実際、席に戻ってから、バッジをはずしていた。
私は、『はずしちゃいかんでしょう』と言ったが、はずしてしまった。
人それぞれに思いがあるのだろうが、どうしても腑に落ちない。

私にとって議員バッジとは、東広島市18万市民の暮らしを預かる責任の象徴である。
そして、胸にバッジをつけるのは、その重責を背負う覚悟があることの意思表示である。
バッジをはずすとは、責任の放棄であるとしか思えないのである。

バッジをはずした、ただの人であれば、その席に呼んでもらうことさえできない。
議員バッジを、責任の裏づけのない単なる権力の象徴としか捉えられないから、
『俺はえらそうにしない』と言いたくて、簡単にバッジをはずせるのではなかろうか。
バッジをえらそうと捉えること自体が、随分とバッジに対して不遜な捉え方だと思えて仕方がない。

私がバッジをはずすときは、議員を辞めるときである。
議員である間、その責任を放り出すことはしないし、してはならないと思っている。

2008年2月7日(木) くもり Vol.14
命の尊さ
NHKの連続テレビ小説『ちりとてちん』の脚本家に感心している。
物事の真髄を理解している味のある言葉が、随所に出てくる。

今日の放映で、師匠が死ぬことが嫌だと泣く若狭に、師匠が言う言葉。
『お前は、ほんまにあほや。それなら、お前が先に死ぬか?
そんな辛い思いを、わしにさせるんか。こういうものは順番なんや。』

最近、青少年の自殺が多発する中で、学校の校長あたりが、「命の大切さ」という言葉をよく使っている。
命の大切さ・・・実は違和感を覚えてならない。
命は、大切なのではなくて、尊いものだと思っている。

命とははかないものである。
地球の寿命に比べれば、ほんの一瞬にも満たない命。
明日とも知れず、今日とも知れず。明日生きているかさえわからないのが命というものだ。

そして、だからこそ、今このときを大切に生きる。
今このときを尊いものと感じながら生きる。
つまり、精一杯生きるということである。

命が大切と言ってしまえば、疲れないように、死なないように、力の出し惜しみをして生きろと言っているように聞こえる。
大切にしなければならないのは、今このとき、どう生きるかということであって、
死ぬか死なないかということではない。

尊いからこそ、大事に大事に、真剣に生きる。
そういうことではないのだろうか。

2008年2月5日(火) くもり Vol.13
記憶
人にとって一番大切なものは、なんであろうか。
私は、記憶だと思っている。
死を目前にして、あの世に持っていけるもの、それは記憶しかない。
どんなに金があっても、物質が溢れていても、
あるいは、名誉があっても、権力があっても、
それらはすべて、時が来れば消えてなくなるものである。

どう生きたか、何を思ったか、楽しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、そして、嬉しかったこと。
その記憶だけは、誰にも消すことはできない。

死の間際に、楽しい人生だったと、幸せだったと、思えるような、
記憶を今このときに刻んでいきたいものだと思う。

2008年1月31日(木) くもり Vol.12
毒入りぎょうざ
中国で作った冷凍ぎょうざに有機リン系の農薬が含まれており、被害が広がっている。
ひどすぎる話である。

こんなことが起きたなら、本来、安全性を信用できない国からの食品輸入は、
全てシャットアウトすべきである。
当該メーカーのみの食品に限るべきではない。
中国国内全ての人に対して、食の安全の意味をわからせるべきである。

しかし、それをしたとき、日本には飢餓が起こるのであろうか・・・
中国食品をシャットアウトしたら、スーパーの棚にどれほどの品物が並ぶのであろうか・・・

わざわざ遠くの国でつくったものを、遠距離輸送して、食に供する。
その方が安いらしい。
新鮮さも、美味しさも、安全性も犠牲にして、経済性のみが優先される。
なにかおかしくないですか。

中国では、日本食が流行ってるらしい。
安全だから、ということである。
その日本人が、毒入りぎょうざを食べている。
安いから、ということらしい。

2008年1月28日(月) Vol.11
政治を侮るなかれ
大阪府知事選挙で、タレント弁護士の橋下氏が大勝した。
地方自治のなんたるかも知らない人間が、
知名度だけで、人気だけで、地方自治の最高責任者となることの危険を感じる。
橋下氏が、その任に耐え得るとはとても思えない。

この選挙結果は、国民の多くが政(まつりごと)を侮っている結果だと思えて仕方がない。
そして同時に、役人のなんたるかを知らなすぎる結果であるのかもしれない。

役人は優秀である。その賢さで、保身に回ったときの役人の論理の欠点を見抜き、
役人を御し、政治家としての自らの意思を政策に実現すべく、役人を配下に置くことのできる力を持つ、
本物の政治家でなければ、役人のお膳立て通りのストーリーを演じることしかできないのである。
分単位のスケジュールをこなし、様々な会議や式典で、役人の書いた原稿を読むだけの知事になってしまうのである。

政治家とは、どんな相手であろうと臆せず、
どんな場合にも、自分の都合で判断せず、
便利がわるかろうがなんだろうが、自分の真実に突き進む、
人々の暮らしを一身に背負う責任者として生きる覚悟を持った人のことである。
命を賭ける覚悟のない人間に、優秀な役人を御すことはできない。

橋下氏に、そういう覚悟を感じさせるような気迫は、見受けられない。残念なことである。
5兆円とも言われる借金を抱える大阪府の経営は大丈夫であろうか・・・