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日本は独立国?
ジェントルマン精神
感動的な卒業式
チベットに平安が訪れますように
朝青龍の涙
道路特定財源
政党政治と地方自治
官僚機構は老朽化している
仏教徒の良心
形骸化した権威は失墜した
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2008年4月28日(月) 晴れ Vol.30
形骸化した権威は失墜した
山口の衆議院補欠選挙で、民主党が圧勝した。
道路特定財源と後期高齢者医療制度の問題に対する民意だと思われている。
が、それだけではないと感じている。

同じく昨日行われた倉敷市長選挙と山口県美弥市長選挙の結果が、それを物語っている。
このふたつの市長選挙ともに、現職や前議長、前町長などの経歴を持つ人たちを破り、
40代の女性と元市職員が当選した。

この3つの選挙結果を見たときに、
かつてあった自民党政権やそれに連なる既定の権威に対する国民の信頼が失墜しているのだと感じた。
肩書きに囚われず、人格として良いと思える人に一票を投ずるという、
本来のあるべき選挙の姿に、やっとなってきたとも言えるのかもしれない。

日本は、和の文化である。
だからこそ、社会秩序を最も大切にする。
そして、権力の側にある人たちは、国民の信頼に必ず応えてくれるものだと信頼している人たちが、
保守層といわれる善良な人たちが、この国には圧倒的に多いのである。

しかし、長期政権にあぐらをかき、時代の変化もわからず、
官僚政治を許してしまった今の自民党政権のだらしなさに、
善良で温厚な、これまで権威を信頼してきた人たちが、匙を投げるに至ったと思えて仕方がない。

信頼できる権威と、形骸化した権威との違い、
偽物と本物の違いを、遂に国民は見抜きつつあるということではなかろうか。

形骸化した権威は、失墜すればいい。
そして、本物の権威というものを、もう一度再構築すればいいのだ。
政治の力が試されている。

2008年4月27日(日) 晴れ Vol.29
仏教徒の良心
騒乱の火種と化した聖火リレーが、長野で行われた。
出発式の場所として予定されていた善光寺が、チベット仏教を弾圧する中国のあり方に同意できないとして、
出発式の会場を辞退したことは、経済などの影響を懸念して何も言えない日本政府の代わりに、
日本人の良心を世界に知らしめてくれたと思っている。

善光寺は、会場を辞退しただけでなく、
聖火リレーの報道に、背景として善光寺が映ることさえも拒否したという。
もしも、善光寺近くで出発式をするのであれば、
善光寺本堂に、『フリー チベット』の横断幕を掲げると言っていたという。
仏教徒の良心に、拍手を送りたい。

愛国心か何かしらないが、リレーに留学生を動員して、中国国旗ばかりが目立つ光景が、陳腐に見えて仕方が無い。
そこまでして中国の威力を誇示しようというやり方が、
返って中国の幼稚さを世界にばらしているのだということすら理解していない国民性に、哀れさえ感じる。

世界は、中国の詭弁を信じるほど幼稚ではないし、
国力の誇示に屈服するほど、弱くもないということを、中国はいつ気付くのであろうか。
これでは、中国に、日本の侵略の歴史を非難する資格などないと言わなければならない。

かつて、孔子・孟子・老子という極めい秀でた思想家を配した中国であり、日本の文化の基礎を伝えた中国が、
こんな幼稚な国になってしまっているということを、悲しく思う。
世界の歴史が、転換点を迎えているのであろう。

それにしても、完璧な警備の様子は、日本の警察は優秀であったということを教えてくれた。

2008年4月17日(木) Vol.28
官僚機構は老朽化している
4月からはじまった後期高齢者医療制度に、高齢者から不満が噴出している。

国保加入者は、これまで払っていた保険料と、新しく始まる保険料と同額程度であると、説明を受けていた。
しかし、蓋を開けてみると、自治体により、そうでもないということだ。
原因は、これまで、財政的に余裕のある自治体では、財源を補填し、
自己負担部分の保険料を安く抑えてきたということである。

あるいは、これまで、自治体独自で、様々な保健事業を実施してきた。
東広島市においては、鍼灸や健康施設の利用にかかる助成券を交付するなどしていた。
このような、自治体独自の取り組みが、
後期高齢者医療制度においては、実施主体が県単位の広域連合とされたため、
全てを廃止せざるを得ない事態に陥ってしまっている。

つまり、自治体がまさに地方自治の観点から、地域に応じた独自の事業展開を行ってきたものが、
なにもできなくなってしまったのである。
このことにより、様々な問題が噴出しているのである。

国家官僚が、全国を画一的にしか見ず、地域の実態を何も知らず、
制度を机上の空論でつくるからこんなことが起こるのである。
地方分権の時代に逆行した制度をつくるとこの有様だ。
たとえ理念は正しくても、地域の特性や歴史的経過を無視すると、混乱しか招かないということが証明されたと言える。

国家官僚が優秀であった時代は、もう終わったのである。
彼らには、様々に違っている国民の暮らしに、各々対応する力はない。
価値観が多様化し、様々な特性に対応しなければならない現代において、
既に、官僚機構は老朽化していると言わねばならない。
今回の後期高齢者医療制度の問題は、このことを如実に物語っている。

2008年4月6日(日) くもりVol.27
政党政治と地方自治
道路特定財源の暫定税率を再議決するかどうかが、焦点になっている。
自民党は、再議決しなければ、地方自治体が困るからやるのだと説明している。
聞いていて、無性に腹が立った。

今、地方自治体は、どこでも財源不足で疲弊している。
その原因は、この間の三位一体改革で、地方分権と言いつつ、
3兆円の補助金削減と併せて、5兆円の地方交付税の削減を行ったにもかかわらず、
それに代わる地方への財源委譲は、ほとんど行われていないからに他ならない。

国家官僚と自民党政権が、国の権限と財源を手放したくない故に、
地方分権の肝心な部分は、全くの骨抜きにされているのである。

その自民党政権のだらしなさにより、地方は、財政難に陥れられたのである。
その上に、地方分の道路財源までなくなると困る、というのが、地方の言い分であって、
自民党の政策に同意しているわけではけしてない。

そもそも地方のことなど何も考えず、国の権限と財源だけを守ってきた自民党が、
今になって、自分たちの言い分が正しいのだと言うために、地方が困るから、などとは、笑止千万と言わねばならない。
地方を困らせてきたのは、あなた方自民党政権である。
官僚の思惑にのせられて、一緒になって地方の財政難をもたらしておいて、何をもっともらしそうなことを言っているのだ。

地方の政治家たちも、もっとしっかりしろと言いたい。
地方議員は、地方の立場に立っていればいいのである。
国の政権が自民党だから、自民党に味方しようという時代は終わった。
地方の立場で、地方自治のあるべき姿を追求し、その実現のために、地方に有利な政策を掲げる政党を選択すればいいのだ。
政党政治は、国だけでいい。
地方は、地方の立場に立っていなければならない。

地方自治の現場で、国の政党政治の政策だけに立脚した議論をする議員がいるが、
場違いだと思っている。
地方の議論すべきことは、まさにそこで日々生活している人たちの現実の暮らしの議論でなければならない。

2008年3月30日(日) Vol.26
道路特定財源
国会が混迷状態だ。
福田首相は、2009年度から道路特定財源を一般財源化すると言い、暫定税率の延長を迫っている。
話し合いに応じない民主党を非難するマスコミの言葉も多く聞かれる。

私は不思議でかなわない。
政党とは何であろう。そもそも政党とは、政策を掲げ、その政策を実現するために政権奪取を目指すものである。
政権のない状態で、政策など思う存分実現できるわけがない。

今は、自民党政権である。
自民党が、暫定税率の延長が、真に国民のためであると信じているのであれば、
1ヵ月後に再議決して、暫定税率を延長すればいいだけの話ではないのか。
世論の顔色を見て、政策を変えるなどということ自体が、
最初言っていたことが、国民のためではなかったということを証明している。

話し合いと言えば聞こえがいいが、馬鹿なことを言っちゃいけないと思っている。
足して2で割る政策など、まともなことになどならない。
政権がなければ、自らの信じる政策を思う存分実現することなど、できるはずがない。
自民党は、暫定税率維持だけに進んでいればいいではないか。
政権を持たない野党の知恵を借りて、その政策を取り込みつつ、自らの政権の維持だけに腐心するなど、
政権与党としての自負心も誇りもなにもないと言わねばならない。
ましてや、一国の総理大臣が、風見鶏のように、都合が悪くなったら主張を変えるなど、はしたないとしか言えない。
この国に、政治があるのか。恥じを知れ、と思う。

私には、選挙を恐れて、言うことをコロコロ変える今の自民党の有り方に、恥ずかしいという言葉しか浮かばない。
政治家とは、誰がなんと言おうと、自らの信じる道、それが国民の福祉の増進になるという信念があれば、
その道を一筋に進む者のことを言う。
今の自民党に、政治家はいなくなった、としか思えない。

国民の生活が変化することは避けなければならない、と言った自民党議員がいた。
あほらしくて話にならない。
生活が変わるから、政権を選択するのである。
何のために選挙をするのか。自らの生活をよりよくする政権を選択するためではないか。
どの政党がやっても同じであるなら、政治家などいらない。
官僚だけがいればいいのだ。

正に、官僚政治にしかなっていないからこそ、この国の政府に、自民党政権に、
まともな政治家がいなくなったからこそ、この国は不幸なのである。

2008年3月24日(月) 晴れ Vol.25
朝青龍の涙
横綱朝青龍が、復活優勝を果たした。
心から喜んでいる姿が、印象的だった。

しかし、またしても、バッシングである。
優勝の瞬間にガッツポーズをしたのが、横綱としての品格を欠くというものだ。
この人たちは、品格の意味がわかっているのであろうか。

品格とは、形ではない。横綱としての重責を負う覚悟と決意の表れが品格である。
思いのない形など、何の意味も持たない。
形だけをとやかく言い、中身については何も考えない輩が、この社会をおかしくしてきたのである。

そもそもの発端は、巡業を休んでモンゴルでサッカーをやったというもの。
子供たちのサッカーの試合に招待され、政府から請われて10分程度サッカーをしたという。
横綱であり、モンゴルの英雄である立場の自覚があれば、
請われれば、痛くても我慢して出場するのは当たり前のことだ。
そして、横綱であれば、痛くても痛そうな格好はしないというのも当然のことだ。

たぶん朝青龍は、何故謹慎処分になったのか、何故バッシングされるのか、意味がわからなかったであろう。
自ら横綱として恥ずべきことをしたという覚えがないからこそ、
日本社会の、マスコミの、あの攻撃の最中、自らの価値観が混乱し、一時的に精神的なダメージを受けたのである。

しかし、朝青龍は、偉かった。
何も言い訳をせず、何の弁解もせず、ただ黙ってひとり耐えたのである。
どこかの元横綱が、家庭内の問題でマスコミに出まくったのとはえらい違いである。
立派な態度であると思った。

そして、復帰し、ただ黙々と相撲に打ち込み、
先場所の相撲は、体が万全でない中、必死で取り組んでいるように見えた。
そして、今場所の優勝である。
引退も囁かれる中、不屈の精神力と相撲を愛する心、そして何より、横綱としての自覚なくして、この優勝はない。

彼こそが、最も横綱としての精神、品格を備えていると思っている。
日本のマスコミや、マスコミに登場して無責任なことばかり言っている相撲関係者のほうが、よほどはしたない。
朝青龍は、やはり遊牧の民モンゴルの戦士である。
武士道精神にも通ずる品格を備えているのは、彼のほうだ。

朝青龍、おめでとう。

2008年3月18日(火) 晴れVol.24
チベットに平安が訪れますように
チベットで大変なことが起きている。
チベットの独立を求める抗議行動を、中国政府が武力制圧している。

この時期は、1959年のダライ・ラマ14世が亡命した日にあわせて、毎年抗議行動があるらしい。
ここ最近、中国政府は、チベットにおいて、ダライ・ラマ14世への信奉を弾圧していたということである。
僧侶が、ダライ・ラマ14世の写真を持っているだけで、警察に拉致される事態になっていたということである。

チベットは、中国の侵略以前は、宗教国家である。
ダライ・ラマ14世を信奉しないチベット人はいない。
ましてや、チベット密教に帰依する僧侶が、その最高指導者を信奉することを禁じるとは、信じがたいことだ。

中国の横暴にたまりかねたチベット人の怒りが爆発しているのだとしか思えない。
ダライ・ラマ14世の陰謀だとする中国政府の主張など、信じる者がいるのかとしか思えない。

ノーベル平和賞を受賞し、何より、慈愛に満ちた生き仏のようなダライ・ラマ14世が、
そんな陰謀など考えるはずもない。
中国政府の苦し紛れの誤魔化しは、世界に通用はしないであろう。

何より、情報を閉ざしている中国政府のやり方自体が、中国の嘘を証明している。
毒入りぎょうざ事件をごまかし続けた中国である。信用などできるはずがない。


チベットは、チベット人のものである。中国ではない。
チベットがチベット人の手に戻り、ダライ・ラマ14世がチベットに戻れる日が訪れることを何よりも祈りたい。
チベットに平安が訪れますように。

2008年3月9日(日) 晴れVol. 23
感動的な卒業式
東広島市立安芸津中学校の卒業式に参列した。
これまで、数々の卒業式に参列したが、稀に見る感動的な卒業式であった。

卒業生の、友達と過ごした年月に対する思い、
そして、先生方に対する感謝の思い、が溢れていた。

改めて、『ありがとうございます』という言葉の美しさが、心に沁みた。

卒業式に参列して、涙が出たのは、はじめてである。
感動とは、人の思いが自分に伝わり、自分の思いと共鳴するときに起きるものだと、今日思った。
美しい思いの溢れた言葉は、確実に人の心を揺さぶる。
思いのない言葉は、どんなに飾っても人の心には届かない。

東広島市の教育が、健全な方向に進んでいることを確認できたことが、何よりも嬉しかった。

2008年2月29日(金) 晴れ Vol.22
ジェントルマン精神
イギリスのヘンリー王子が、アフガニスタンの最前線に兵役参加しているらしい。
イラク戦争に参加したかったらしいが、撤退で参加できなかったということである。
イギリスのジェントルマン精神は生きていることを知った。

かつて、イギリスの貴族は、平時には、飲んで食って遊んで過ごしているが、
いざ有事になると、我こそがこの国を守ると、勇んで命を捨てに戦争に参加するという話を聞いた。
それこそが、貴族としての役割であり、ジェントルマンとしての証であるという自負によるものらしい。

良い話だと思っていた。
そのジェントルマン精神が、今でも生きているということを、
ヘンリー王子が証明してくれた。

その美しい精神に敬意を感じる。

2008年2月26日(火) Vol.21
日本は独立国?
かつてロス疑惑と呼ばれ、妻を殺害したと疑われた日本人がロス警察に逮捕された。
事件の内容や真偽には、何の興味もないが、

日本人が日本人を殺すという犯罪の、その場所がアメリカであれば、
日本の法律で無罪になっても、アメリカは逮捕できるらしい。

逆に、米兵が日本人に対して犯罪を犯し、その場所が日本であっても、
その米兵は、アメリカに引き渡さなければならない。

国と国として、この関係は対等とは言えそうにない。

日本が、独立国家であると思っているのは、もしかすると日本人だけなのかもしれない。
アメリカは、はじめから日本を属国としか思っていないのではなかろうか。
この関係から脱却することなくして、戦後は終わらないのかもしれない。

自民党は、憲法9条の改定にのみ固執しているが、
憲法を変えたからといって、この関係は何も変わらないであろう。

考え直すべきは、国の独立の有り方であり、それに基づく、日米安保の見直しではないのか。
国家として、国民を守る責任をどう取り、
そして、独立国としての尊厳をどう確立するかでしかないと思える。